イタリア料理の使われるスパイスのお話し(コショウ編)

イタリアとコショウの関係

イタリアのお料理とスパイスの関係、今回はコショウについてです。

歴史の裏付けをしてからご案内しようと思ったのですが、歴史書はあまりにも細かく、それにイタリアで聞いた話と微妙なズレ、が出てきてしまいました。

よもやま話として、お聞きいただけると嬉しいです。

イタリア料理にコショウは不要だった

13~14世紀の中世において、コショウの最大消費地はフランス以北の地域でした。

その頃、あの地域は、冬の寒い間の主な食料は豚肉の塩漬け。その発酵臭は、かなり酷かったらしいです。

その臭み消しにコショウはピッタリ、すぐにコショウは貴重品になります。

一方イタリアは、その頃でも、春夏秋冬通して新鮮な食材が手に入りやすいので、コショウは不要。

先日ご紹介したジェノバとピサの間にある港町ラ・スペツィア(La Spezia)や、ベネチアで水揚げされたコショウは、貴重な商品として扱われていたはずです。

確かに、フィレンツェには、コショウを使用した古いレシピがあるのですが、たぶん、コショウが安価になってからのお料理だと思います。

経緯はこんな感じです。

まず、ベネチアは、独自に中東との貿易ルートを持ってコショウの貿易をしていましたが、1453年にオスマン帝国が、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を占領してから、貿易ルートが途絶えて衰退していきます。

フィレンツェは、中世フィレンツェを支配したメディチ家のご先祖さんが、織物貿易の関係でアラブの商人と繋がりがありました。繁栄を極めたのですが、1494年頃にはフランスのシャルル8世に占領されているはずです。

フィレンツェは、お金持ちの国だったので、傭兵を雇っていたのですが、戦わずに傭兵が逃げちゃったらしいのです。

 

まぁ、何はともあれ、コショウ貿易で莫大な富を築いたイタリアの強国2つは、衰退していきます。

そのあと、スペインやポルトガルが中心になって、大航海時代が始まります。目的はコショウなどの香辛料貿易です。

16世紀初頭、つまりベネチアが衰退し、フィレンツェがフランスに占領された十数年後に、ポルトガルの艦隊が、イスラム勢力と戦いに勝って(1509年ディーウ沖の海戦)、インドなど香辛料の産地と、直接取引が出来るようになったみたいなんです。

黒胡椒を使ったフィレンツェのお料理、「ペポーゾ」と呼ばれる牛肉を黒胡椒と赤ワインで煮込んだ料理が出てくるのが、15世紀(1600年代)ですので、コショウは値下がりしていたのでは?と思うんです。

15年くらい前に撮った写真ですが、これがフィレンツェの大聖堂です。
ここの労働者向けに供されていたのが、ペポーゾらしいです。

 

コショウを高価にしたのは半分イタリア商人

コショウは金と等価交換されていたと聞いたことがあります。

金の重さだけコショウが買えたんです。

とんでもない価格だった理由が、利益の二重取りでした。

コショウの産地のインドや東南アジアでは安価でも、アラブの商人とイタリアの商人両方で値を上げたので、高価になったらしいです。

先ほどご紹介した大航海時代で、このイタリアとアラブの商人を経由しないで、コショウが手に入るようになったのは、大きな事だったのだと思います。

それに、気候的にコショウは、ヨーロッパで栽培できないですからね。

コショウで栄華を極めたフィレンツェとベネチア

歴史と料理を絡めてみると、個人的にはとても面白いです。歴史にはオモシロ話もありますし

例えば、同じように栄華を極めたフィレンツェとベネチアですが、教会などの華やかさは、かなり違います。

フィレンツェでは、おとなしめの装飾でも、ベネチアは煌びやかです。

フィレンツェの知人が言うには、

ベネチアはお金を使わない人達で、貯めるだけ貯めてから使ったので、装飾が賑やか。でもフィレンツェは、公共のために文化や芸術に投資したから、それなりの装飾なのだと。

確かにフィレンツェは芸術の都で素晴らしいのですが、傭兵はちゃんとした人雇っておけば良かったですね。とは思いましたが、言えませんでした(笑)

ヒナタノ店主・加藤 昭広

おいしいもので喜んでいただくことが大好きです。おいしいものを探してイタリアへ移住。気がついたら仕事になっていました。
自他ともに認めるオリーブオイル ヲタクです。
このブログでは、おいしい話しやイタリアの職人さんたちから聞いた小ネタを紹介しています。